2004年夏、私たちの一番の関心事と言えば、やっぱり”アテネ”でしたよね!
オリンピックでは、藤丸真世さん(若葉町在住)がシンクロナイズドスイミング・チーム演技に出場。素晴らしい演技でみごと銀メダルを獲得されました。また、野球競技に日本人で唯一の審判員として選ばれた林清一さん(布田在住)、パラリンピック・卓球競技でベスト8に輝いた富岡成一さん(染地在住)、同じくパラリンピックでウィルチェアラグビーに初出場した日本チームを、キャプテンとしてひっぱった福井正浩さん(深大寺在住)。それぞれ、調布にゆかりのある皆さんです。今回の人・ひと・PEOPLEでは、4名の皆さんにアテネ・オリンピック&パラリンピックの感動や思い出などを語っていただきました。


 


2004アテネオリンピック
シンクロナイズドスイミング チーム演技
藤丸 真世(ふじまる みちよ)さん

1979年生まれ 
市立若葉小学校及び市立第四中学校の出身。
3歳のころから金子スイミングスクール(現アクラブ調布)に通い、小学校2年生よりシンクロ選手に。以来、ジュニア部門のころから現在に至るまで、様々な全国大会や国際大会での活躍を重ねてきました。

 

みなさんの応援が力になりました。ありがとうございました。(藤丸)


  アテネオリンピック出場に際しては、たくさんの皆さんに応援をいただき、本当にありがとうございました。皆さんの笑顔が見たくて、それがとても力になりました。
 アテネでは、ふだんと変わらず演技できたと思います。現地入りしてからも、悔いが残らないようにひたすら練習をしました。練習の量は世界一だったと思います。自分としては悔いのない演技ができたと思いますが、シンクロは見た人が「よかった」か判断する競技だと思いますので、皆さんがどう感じてくれたかが一番大切だと思います。
 選手村では、レスリングの選手と同じ棟で、伊調姉妹や吉田選手など、かなり仲良くなりました。水泳競技の選手はもちろんですが、女子バスケットの選手などとも仲良くなりましたね。あと、体操の選手にも情報を聞いたりしてましたよ(笑)。
 オリンピックが終わって、とにかくホッとしています。今後の予定はまだ決まっていませんが、最終的にはやはり、シンクロにかかわる仕事をしていきたいと思います。


 

2004アテネオリンピック
野球審判員
林 清一(はやし せいいち)さん
昭和30年生まれ。早稲田実業野球部、早稲田大学、大昭和製紙と野球を続け、昭和61年に公式審判員となる。以降、東京六大学野球や高校野球、都市対抗野球などの審判員として活躍後、世界大学野球選手権やオリンピックアジア予選などで国際審判員を務めました。アテネオリンピックの野球競技では世界14ヶ国から18名の国際審判員が選出され、日本からは唯一、林さんが選ばれました。現在は(財)日本野球連盟、国際審判育成専門委員会、規則、審判専門委員会に所属。(社)調布市体育協会理事。

 

各国の選手の気迫を肌で感じました。多くの人たちとの出会いが、一番の思い出です。(林)


 オリンピックはやはり独特の雰囲気がありましたが、楽しんで審判をすることができました。(オリンピックという舞台で審判員をすることは)プレッシャーもありましたが、日本国内の試合よりはリラックスしてできたと思います。
 アテネでは8試合、日本を除く全ての国のジャッジをしました。
 一番印象に残っているのはやはり決勝のキューバ対オーストラリア戦ですね。1塁の審判をさせていただきましたが、キューバ・オーストラリア両国の監督が退場になるなど、国際試合ではとても珍しい試合でした。
 出場選手からはみな、「国を代表して来ている」という気迫がすごく感じられました。「その気迫に負けないようなジャッジをしなければ…。」と私もいいプレッシャーを感じながらやることができました。
 また、自分が審判を担当する試合がない時は、長嶋ジャパンの応援に行ったりもしました。
 普段の試合では野球関係者としか接することがありませんが、アテネでは野球以外のいろいろな人と出会え、たくさん話せたことが一番いい思い出になりました。皆さんが野球についてどう考えているかが分かりましたし、自分が他の競技の人に、野球について伝えることもできたと思います。
 これから皆さんにもっともっと野球を好きになり、楽しんでもらうためにも、日本の野球は世界との差をさらに縮めていかなければ…と思います。そのためには、世界の”統一ルール”に日本の野球を近づけていかなければいけないと思います。
 皆さん、ぜひ野球を楽しんでください。そして是非『審判』も目指して欲しいと思います。


 

2004アテネパラリンピック
ウィルチェアーラグビー
福井 正浩(ふくい まさひろ)さん
1965年、福岡県で生まれ、生後すぐ東京へ。以来東京で育った福井さんは22歳の時、オートバイ事故に遭遇します。リハビリの後、バスケットボール、陸上競技(マラソン)を経て、ウィルチェアーラグビーと出会いました。日本でウィルチェアーラグビーの組織を立ち上げた中心的存在でベテランプレーヤーである福井さんは、日本代表チームの要・キャプテンとして、アテネパラリンピック初出場を果たしました。

 

ウィルチェアーラグビーの面白さを、もっともっと伝えたい。(福井)


 ウィルチェアーラグビーとの出会いはフロリダの市民マラソン大会に参加した時でした。近くでその競技をやっているというので体験させてもらったのですが、それは、それまでの私が持っていた車椅子スポーツの概念をうち破った「車椅子同士が激しくぶつかり合う」という、とても激しいスポーツでした。車椅子同士がぶつかっても『いい』競技なんてそれまで知らなかったのです。「面白いなぁ!」
 その後、私を含め4〜5人が中心となり、今から8年前にウィルチェアーラグビーの組織を立ち上げました。今では北は盛岡から南は沖縄まで、国内で8チームあります。
 アテネパラリンピックの出場が決まってからは月1回の合宿を重ねてきましたが、残念ながら1勝をあげることができませんでした。ただ、1点差負けが3試合あり、惜しかったと思う反面、やはり精神面の強化が必要と痛感しました。
 パラリンピックで一番感動したのは開会式です。入場する前からゲートに入る直前、会場の中が騒然となっているところを目の当たりにして、気持ちがどんどん高まっていきました。
 4年後の北京では、また代表に選ばれることは難しいかと思いますが、若い人たちに協力して行きたいですし、今後ウィルチェアーラグビーというスポーツを世の中に広げていく力になれればと思います。


 

2004アテネパラリンピック
卓球競技9クラス(個人戦・団体戦)
富岡 成一(とみおか しげかず)さん
昭和20年生まれ。中学2年生の時、卓球を始め、昭和42年には東京都新人戦で優勝。昭和46年に車同士の事故に遭って入退院の生活を送りますが、4年間後に競技を再活動。その後、全日本社会人選手権フォーティの部で優勝。平成12年に障害者の認定を受け、その年の全日本障害者選手権に優勝。以降、世界選手権など国際大会に積極的に出場し常に好成績をあげています。
調布市卓球連盟副会長、駒沢大学卓球部総監督、日本卓球協会公認C級コーチ、調布市つつじケ丘スポーツ少年団コーチ。

 

卓球は長い友達。若い人たちも、どんどんチャレンジしてください。(富岡)


 卓球は中学2年生の時に始めました。26歳の時に交通事故に遭い、4年間は活動できませんでしたが、以降も54歳まで健常者として大会にも出場し、40歳には全日本社会人選手権でチャンピオンにもなりました。4年前に障害者の認定を受け、今回初めてパラリンピックに出場しました。
 今現在のランクは世界4位なので、パラリンピックは今までの集大成という意味でメダルを狙っていましたが、ベスト8で残念です。もっと若いときに認定されていればなぁと思ったりもします(笑)。
 アテネでは10試合ほどやりましたが、試合と試合の間が長く、時間が余ってしまって、気持ち(モチベーション)を長く持ち続けるのがなかなか大変でした。でも同じ宿舎にはシッティングバレーの日本チームがいて、エーゲ海のそばで試合があると言うので応援に行って、海を眺めたりすることもできましたので、楽しかったです。エーゲ海は綺麗でしたね。時間があれば海に入りたかったですけど。
(4年後の北京も目指しますか?)若い人にもっとチャレンジしてもらいたいですね。もちろん自分も応援には行くつもりですが。人手が足りなかったら助っ人として出場するかもしれないですね(笑)。
 卓球は長い友達です。ぜひ皆さんも卓球を楽しんでください。卓球競技の経験者は、たとえばリタイアされた方でも、子供達の指導などで、きっとその経験を地域に役立てるはずです。


 

 



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